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神仏に帰依して生きる人は、悪しき因縁に惑わされなくなる。
神仏に帰依して生きることは、なぜ「良い」のか、なぜ「幸せな人生が送れるのか」を、最近私は考えておりました。
先日、龍猛菩薩の「菩提心論」(和訳)を読んでいて、「なるほど」、と思う箇所がありましたので、皆様にご紹介いたします。
「龍猛菩薩とは」(wikipedia)
●龍猛菩薩の「菩提心論」(和訳)より(一部抜粋)
龍猛菩薩の「菩提心論」にこういっています。
「およそ迷いの世界の諸法は妄想より生じます。
そしてこの妄想から、つぎつぎに妄想を生じて、無量無辺の煩悩を作り、六趣に輪廻するのです。
しかし、もし悟(さと)り了(おわ)ったなら妄想はなくなりますし、妄想にもとづいた種々の法は滅します。
それゆえ、これらに本来の自性(じしょう)があるわけではありません。
(引用終了)
●雑念妄想は、人を不幸にする悪因縁を引き込む根源である。
これを読むとよくわかるのですが、人を不幸にする悪因縁というのは、すべて妄想から生じる煩悩から生み出されているのです。
考えてみればその通りなのです。迷いというのは、すべて妄想から出ているのです。この妄想が、深い妄想を呼び、それが煩悩となって、悪因縁を引き込んでいるのです。
前のブログ記事「ワールドメイトの神人合一の法を学べば、幸せな人生を歩める。神仏に助けてもらって人生を歩める。 」でも書きましたが、私の青年期は、雑念妄想があまりにも出てくるため、自分を苦しめていました。(本当に毎日が苦しかったです。)
この雑念妄想から迷いが生じ、学校でも、先生に怒られる、友人関係が壊れていく、という悪しきことが、連続で起きていたことを、龍猛菩薩の「菩提心論」を読んで、思い出しました。
あの時、私を苦しめていた根源は、全て雑念妄想だったのです。
悪口をグチャグチャ言う人も、悪口の根本は、妄想から生じる煩悩なはずです。
悪口が悪口を呼び、終(しま)いには悪因縁を呼び、にっちもさっちも、いかなくなってしまうのです。
(明るくて素直な人というのは、あまり妄想が出ている感じはありません。)
私の青年期は、この負のスパイラルに嵌っていたのです。
●雑念妄想を捨てることは、悪因縁から解放される第一歩である。
しかし、ワールドメイト入会して、救霊を受け、神法悟得会入門篇のお祈りに基づく生き方をすることで、少しずつ雑念妄想が出てこなくなりました。
体がだんだん楽になっていきました。嫌なことも、余り起こらなくなりました。そして、毎日が楽しくなっていきました。
今では、なるべく神仏に心を向けて生活をしているので、ほとんど雑念妄想が出てきません。
(たまに出てきても、すぐに自分で消しております。)
だからこそ、神仏に帰依して、信仰を持って一生懸命頑張る人は、雑念妄想が出て来ないので、悪因縁に巻き込まれることが無くなるのです。
(また、新たなる悪因縁を作ることもありません。)
それゆえに、性格もどんどん明るくなって、良き人生になっていくのではないでしょうか。
私は、真言八祖の一祖である、龍猛菩薩(西暦150頃~250年頃)は偉大であると思いました。今から約1800年も前に、人が不幸になっていくメカニズムを明確にして、文面化していたわけですから。
この真理が、今の時代でも当てはまるというのも、何か不思議な感じがいたします。
私は、この龍猛菩薩の言葉を大切にしながら、今後も、神仏に帰依しながら、信仰心を持って生き貫いていきたいと思った次第です。

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一生懸命努力して体得した物は、永遠の財産である。その2
前回のブログの続きです。10年以上ブランクのあった、ピアノの腕が、33歳で再開をしたら、ピアノの腕がまったく落ちていないどころか、上達していたという話をご紹介いたしました。
その理由として、
1、握力が付いた
2、神人合一の道を歩む過程で、雑念が出なくなった。そのために、楽譜を見て、曲を弾くという流れが、スムーズになった。
という話でした。
今回は、その3ということで、
3、人が一度覚えた物、体得したものは、簡単には忘れない。
一生懸命努力して体得した物は、永遠の財産である。
ということをブログの記事とさせて頂きます。
10年以上ブランクがあったのに、ピアノの腕が全く落ちていなかったのは、人が一度覚えた物、体得したものは、簡単には忘れない。
ということが一番大きな要因かと思いました。
20年以上も自転車の乗っていなかったおばさんが、勇気を出して自転車をこいでみたら、無事に転ぶことなく乗れた。
という話を聞きますが、これと同じかと思います。
人というのは、一度覚えた物、体得したものというのは、ずっとずっと頭と体に入っているということだと思います。
ということは、前世の記憶も同じだと思いました。
前世で体得したものというのは、エッセンスとして、御魂に刻みこまれているはずなのです。
音楽を追求し体得した人は、生まれ変わったら、何となく音楽が好きで音感が良いとか、リズム感がいいとか。センスがいいとか。上達が早いとかあると思います。
前世画家であった人は、色彩が良いとか、筆のタッチがいいとか。あるかと思います。
前世、神仏に帰依し、一生懸命信仰に生きた人は、お経を聞いたら、興味を持ってよくわかないけど嬉しくなって、勉強したくなるのと同じかと思います。
このブログでも何回かご紹介させて頂きました。500年に一度の天才と謳われた白隠禅師は、ワールドメイトの深見東州先生の話ですと、前世は臨済禅師だそうです。
白隠の幼少期は、非常に利発な子で、子守りが歌う、小夜の中山の村歌三百余首を、背中で聞いて覚えてしまうほど暗記力が優れていたそうです。感受性も強く、5歳の時、はした女に連れて行かれた海岸で、雲の往来を見て「いかさまかわったものだ」と、子供ながらに、無常感を起こしたそうです。
白隠の母は信心深い人で、寺へ行くのが好きだったそうです。白隠は泣いてせがんで、母と一緒に連れて行ってもらい、大人でも難しい説法を覚えて帰り、家の使用人達を集めて、話して聞かせたそうです。
天才が生まれかわってきたら、やっぱり天才なのです。
記憶はなくなっていても、体得した前世のエッセンスは、御魂に刻み込まれているのです。
ワールドメイトの深見先生の前世の一つとして、真言密教七祖の恵果阿闍梨だそうです。
★恵果阿闍梨(wikipediaより)
恵果(けいか、746年 永貞元年12月15日(806年1月12日))は、中国唐代の密教僧で日本の空海の師。俗姓は馬氏。長安の東にある昭応の出身。真言八祖の第七祖。
出家した後、不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から大日系と蘇悉地系の密教を学んだ。
金剛頂経・大日経の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的に改変も行った。
長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と3代にわたり皇帝に師と仰がれた。
また、六大弟子と言われる六人に附法した。
すなわち、剣南の惟上・河北の義円(金剛一界を伝授)、新羅の恵日・訶陵の辨弘(胎蔵一界を伝授)、青竜の義明・日本の空海(両部を伝授)。
なお、義明は唐朝において潅頂の師となったが、早世している。
(引用はここまで)
恵果阿闍梨は、当時2つの系統であった、金剛頂経・大日経の両系統の密教を統合した第一人者だそうです。両部曼荼羅の中国的に改変も行ったそうです。
また恵果は、弘法大師空海の先生です。
こんな人が生まれ変わってきたら、どうなるのでしょうか。
それはもう、生まれながらにして、神仏を動かすエッセンスが全部御魂に刻みこまれているわけです。
護摩木を焚かなくても、曼荼羅が無くても、法具がなくても、祭壇がなくても、祈るだけで、神仏を自由に動かすことができるわけです。
弘法大師空海が、出口王仁三郎に生まれ変わったのと、全く同じです。
ということは、一生懸命がんばって体得したものというのは、私が幼少期から22歳ぐらいまで磨いたピアノの腕が、10年以上のブランクの後にも全く落ちていなかったように、今世はもちろんのこと、来世まで、来来世までもずっとずっと、御魂から消えることはないのです。永遠の財産なのです。
それを考えると、この世に生を受けた以上は、寸暇を惜しんで、勉学に励み、才能を磨き、人格を磨き続けなければいけないと、私はピアノの体験から、如実に感じ入りました。
今後も、寸暇を惜しんでどんなことでも学び続け、精進していこうと決意を新たにさせて頂きました。

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一生懸命努力して体得した物は、永遠の財産である。その1(副題:神人合一の道は万芸に通ず。)
私は以前のブログ記事(継続は力なり)で、ピアノをやっていたと紹介させて頂いたことがありました。
あの時の内容の他にも、お伝えしたいことがありますので、続編ということで、原稿を書かせて頂きました。
ピアノは22歳ぐらいまで練習をしていたのですが、大学卒業と共に、仕事が忙しくなったこともあり、ほとんど弾かなくなりました。
そして、10年以上経ってから、何となくピアノを再開したのです。
(理由もなく無性に弾きたくなったためです。)
(再開してから、(33歳ぐらいに)憧れの曲であった、ショパンの「別れの曲」が通して弾けたことは、以前のブログで紹介した通りです。)
10年以上もブランクがあった状態で、再開したら驚いたことがあったのです。
それは、何ゆえか、22歳ぐらいまで磨いたピアノの腕が、全く落ちていなかったのです。それどころか上達していたのです。10年以上全く弾いていなかったのにです。
その証拠に、ショパンの「別れの曲」が通して弾けたり、もう一つ、ショパンの「幻想即興曲」も通して弾けたのです。
「幻想即興曲」も、22歳の時は、弾けなかったのですが、33歳ぐらいで再開した時には、通して弾けたのです。
(もちろん、プロが弾くような旋律ではありません。素人のレベルです。)
なぜ、全く練習をしていなかったのに、腕が落ちていなかったか、また、さらに上達していたか、理由をいくつか自分なりに考えてみましたら、以下3つの要因があったのだろうと思います。
1、握力が付いた。
22歳の頃より、右手も左手も10kgずつぐらい、握力が増しております。それだけ繊細な動きができるようになったかもです。
ただし、ピアノの腕と握力は、あまり関係が無いという話もあるので、何とも言えないです。
2、ピアノを弾くとき、雑念が出ない。
(神人合一の道は万芸に通ず。)
前のブログ記事(ワールドメイトの神人合一の法を学べば、幸せな人生を歩める。神仏に助けてもらって人生を歩める。)でも書きましたが、
ワールドメイトに入会する前の私は、私の悪い癖で、何をするのにも雑念が出てきて、自分を苦しめていました。
ピアノを弾く時も同じでした。練習をしていても、雑念がどうしても出てきていました。
そのため、楽譜を見て、脳細胞を通って、そこから腕と指に伝達する神経の流れが、阻害されていたのです。
(本当に集中している時は、雑念は出てきませんでしたが。)
いつも私はこれに苦しめられていました。ピアノを弾く時も、自分が出した、行き場の無い雑念に苦しめられていたのです。
しかし、ワールドメイトに入会して、救霊を受け、神人合一の道を歩む過程で、だんだん雑念が出て来なくなったのです。
今では、なるべく神仏に気を向けるように努力をしているので、湧きいずる雑念の量は、昔の百分の一から、五十分の一ぐらいになっていると思います。
(この比率は、あくまで私の感覚ですが。)
雑念がほとんど出てこないので、ピアノを弾いていても、楽譜を見る、脳細胞に伝わる、腕や指に伝わる神経の流れが、何物にも阻害されなくなっていたのです。
神人合一の道を歩んでいるうちに、芸術が上達するための大切な部分が、(自分の歪んでいた箇所が)いつの間にか矯正されていたのです。
22歳の頃の自分と、現在の自分との違いが、ピアノを弾いていて、驚くぐらい変わっていることに気が付きました。
だからこそ、ショパンの「別れの曲」も、「幻想即興曲」も、つらつらと弾けるようになっていたのです。
(もちろん、素人のレベルです。プロが弾くような旋律ではないです。)
神人合一の道を志し、神仏に気を向けるような生き方をすることによって、10年以上も弾いていなかったピアノが上達していたという、とても不思議なことを体験したのです。
これを考えると、神人合一の神法というのは、人生や人間性の根本の部分を成長させてくれるのはもちろんのこと、芸術力向上の近道でもある素晴らしい神法であるようです。
今後も、ワールドメイトで教えて頂いた、神人合一の道を大切に歩んでいこうと、私は思った次第です。
ここまで、今回の記事の内容なのですが、次回は、ピアノの腕が落ちていなかった理由の続き、
3、人が一度覚えた物、体得したものは、簡単には忘れない。
一生懸命努力して体得した物は、永遠の財産である。
というのをご紹介いたします。

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あの時の内容の他にも、お伝えしたいことがありますので、続編ということで、原稿を書かせて頂きました。
ピアノは22歳ぐらいまで練習をしていたのですが、大学卒業と共に、仕事が忙しくなったこともあり、ほとんど弾かなくなりました。
そして、10年以上経ってから、何となくピアノを再開したのです。
(理由もなく無性に弾きたくなったためです。)
(再開してから、(33歳ぐらいに)憧れの曲であった、ショパンの「別れの曲」が通して弾けたことは、以前のブログで紹介した通りです。)
10年以上もブランクがあった状態で、再開したら驚いたことがあったのです。
それは、何ゆえか、22歳ぐらいまで磨いたピアノの腕が、全く落ちていなかったのです。それどころか上達していたのです。10年以上全く弾いていなかったのにです。
その証拠に、ショパンの「別れの曲」が通して弾けたり、もう一つ、ショパンの「幻想即興曲」も通して弾けたのです。
「幻想即興曲」も、22歳の時は、弾けなかったのですが、33歳ぐらいで再開した時には、通して弾けたのです。
(もちろん、プロが弾くような旋律ではありません。素人のレベルです。)
なぜ、全く練習をしていなかったのに、腕が落ちていなかったか、また、さらに上達していたか、理由をいくつか自分なりに考えてみましたら、以下3つの要因があったのだろうと思います。
1、握力が付いた。
22歳の頃より、右手も左手も10kgずつぐらい、握力が増しております。それだけ繊細な動きができるようになったかもです。
ただし、ピアノの腕と握力は、あまり関係が無いという話もあるので、何とも言えないです。
2、ピアノを弾くとき、雑念が出ない。
(神人合一の道は万芸に通ず。)
前のブログ記事(ワールドメイトの神人合一の法を学べば、幸せな人生を歩める。神仏に助けてもらって人生を歩める。)でも書きましたが、
ワールドメイトに入会する前の私は、私の悪い癖で、何をするのにも雑念が出てきて、自分を苦しめていました。
ピアノを弾く時も同じでした。練習をしていても、雑念がどうしても出てきていました。
そのため、楽譜を見て、脳細胞を通って、そこから腕と指に伝達する神経の流れが、阻害されていたのです。
(本当に集中している時は、雑念は出てきませんでしたが。)
いつも私はこれに苦しめられていました。ピアノを弾く時も、自分が出した、行き場の無い雑念に苦しめられていたのです。
しかし、ワールドメイトに入会して、救霊を受け、神人合一の道を歩む過程で、だんだん雑念が出て来なくなったのです。
今では、なるべく神仏に気を向けるように努力をしているので、湧きいずる雑念の量は、昔の百分の一から、五十分の一ぐらいになっていると思います。
(この比率は、あくまで私の感覚ですが。)
雑念がほとんど出てこないので、ピアノを弾いていても、楽譜を見る、脳細胞に伝わる、腕や指に伝わる神経の流れが、何物にも阻害されなくなっていたのです。
神人合一の道を歩んでいるうちに、芸術が上達するための大切な部分が、(自分の歪んでいた箇所が)いつの間にか矯正されていたのです。
22歳の頃の自分と、現在の自分との違いが、ピアノを弾いていて、驚くぐらい変わっていることに気が付きました。
だからこそ、ショパンの「別れの曲」も、「幻想即興曲」も、つらつらと弾けるようになっていたのです。
(もちろん、素人のレベルです。プロが弾くような旋律ではないです。)
神人合一の道を志し、神仏に気を向けるような生き方をすることによって、10年以上も弾いていなかったピアノが上達していたという、とても不思議なことを体験したのです。
これを考えると、神人合一の神法というのは、人生や人間性の根本の部分を成長させてくれるのはもちろんのこと、芸術力向上の近道でもある素晴らしい神法であるようです。
今後も、ワールドメイトで教えて頂いた、神人合一の道を大切に歩んでいこうと、私は思った次第です。
ここまで、今回の記事の内容なのですが、次回は、ピアノの腕が落ちていなかった理由の続き、
3、人が一度覚えた物、体得したものは、簡単には忘れない。
一生懸命努力して体得した物は、永遠の財産である。
というのをご紹介いたします。

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松蔭寺参拝記
いつもは、神社参拝の内容を紹介させて頂いていましたが、今回はお寺です。
そこはどこのお寺か?
このブログで何回か紹介をさせて頂いていました。
500年に一人と言われるほどの高僧となり、のちに臨済禅中興の祖と仰がれるようになった、あの白隠禅師のお寺「松蔭寺」と墓所をご紹介いたします。
この松蔭寺に来たのは、今回で3回目です。
自分自身に迷いが生じた時に、松蔭寺に来させて頂いていました。
今回も、自分の将来のことや、仕事のことで、迷いが生じ始めていたので、松蔭寺に行き、白隠禅師のお墓に参拝することを思い立ち参拝をさせて頂きました。
参拝の内容をご紹介する前に、白隠禅師の略歴を、ご紹介いたします。
●白隠禅師~500年に一度の名僧~。
(白隠禅師の紹介ページより)
”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”
白隠禅師は、駿河国原宿(現在の沼津市)長沢家の三男として、貞享二年(1685年)十二月二十五日の仕舞天神の日、丑の年、丑の日、丑の刻に生まれ、名を岩次郎といった。
十五歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられた。
十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった
禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和五年(1768年)十二月十一日八十四歳で入寂(にゅうじゃく)し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
(引用ここまで)
ワールドメイトの深見東州先生によると、白隠禅師は、日本の歴代僧侶の中で、霊格ナンバーワンだそうです。弘法大師や伝教大師よりも上だそうです。
それもそのはずだと思います。
白隠禅師は、24歳のとき、越後高田の英厳寺(えいがんじ)で坐禅中、鐘の音が鳴り渡るのを聞き、禅師はこつ然と大悟したそうです。その後、信州飯山の正受老人(しょうじゅろうじん)の基で修行し、その法を嗣いだそうです。
そして、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。
ワールドメイトの深見東州先生の解説によると、
法華経を体得できたということは、お釈迦様と同じレベルに達したということです。
ようするに、白隠禅師は42歳で、釈尊に追い付いたのです。
その後も、一日も怠ることなく修行をし、後進を育て続け、84歳で入寂する頃には、釈尊が開いた悟りの2~3倍に達していたそうです。
これを考えれば、日本史上最高の僧侶だったことが伺えます。
禅文化研究所から出ている、白隠禅師法語禅集(全14巻)を読んでいると、白隠のすごさが良くわかります。
白隠は、数多くの後進を、見性(悟り)へと導きました。
何十年修行しても、なかなか見性(悟り)が得られない僧侶達を、ガンガンに見性(悟り)へと導いていったそうです。
これはすごいと、噂が噂を呼び、白隠禅師がいた松蔭寺には、200~300名の僧侶が常に集まり、修行をしていたそうです。
後進への指導は、雷が巌を打ち付け破壊するぐらいの、迫力があったそうです。
白隠禅師が説法をするとなると、京都のお寺でも、飛騨高山のお寺でも、200~300名の人々が自然に集まってきたそうです。
佐賀藩の大名も、参勤交代の途中に松蔭寺に立ち寄り、白隠禅師の指導を仰いでいたそうです。
これから考えても、いかに白隠禅師の悟りが本物であり、指導者としても優れていたかが良くわかります。
今回この白隠禅師の墓所に参拝するわけですから、行く道中は自然と身が引き締まりました。
●電車で移動 原駅(静岡県)に着いた。

いつもは、車で移動していたのですが、松蔭寺は(静岡県)原駅のすぐそばにあることと、東海道線上にあるためアクセスがしやすいので、電車で行きました。
●(静岡県)原駅から、望む富士山

(静岡県)原駅のプラットフォームから望む富士山は、とても綺麗でした。
原駅に降りて、最初に目に入ったのが、この富士山でした。
●松陰寺に着いた。

(静岡県)原駅から、10分程歩いて、松蔭寺に着きました。
今回で、3回目ですが、「大本山松蔭寺」の石柱を見た瞬間に、身が引き締まりました。
●松蔭寺の正門

松蔭寺の正門です。ここに240年前に、白隠禅師がいたのかと思うと、自分の御魂が、震えてくるのを感じました。
●本堂 扁額は「大信根」

正面を歩いて、右側に「大信根」という扁額の本堂がありました。(立派な伽藍というわけでなく、どこにでもある普通のお堂です。)
白隠禅師は、
「大信根、大疑団、大憤志を持って修行の三要件とし、見性成仏させる宗風を復活させた、臨済禅中興の祖である。」
とのことでしたので、この大信根が書かれていたのでしょうね。
●本堂 脇にある「大憤志」という扁額の館は、禅堂(修行道場)なのでしょうか。

禅堂の中は、向かい合って座るレイアウトになっていました。臨済宗は、向かい合って座ることを考えると、やはりここは禅堂なのでしょうね。
(曹洞宗は壁に向かって座ります。)
松蔭寺は、そんなに大きくない普通のお寺です。
このお寺に200~300人もの雲水が、白隠を慕って修行をしていたかと思うと、当時は、そうとう興勢を誇っていたことと思われます。
改めて、組織や人材というものは、リーダーの実力に比例して、大きくなったり、集まったりしていくものだなあ、ということも感じました。
●禅堂(修行道場)の木版

少し、墨が消えかけて見難かったのですが、掲げてあった言葉は
「生死事大 光陰可 無常迅速 謹莫放逸」
でした。
意味は、(私の拙い訳ですが)
「生死は一大事、光陰(時)は矢の如く、無情迅速に過ぎゆく、修行に励め、無為に過ごすな。」
なのでしょうか。とても深い言葉だと思います。
白隠禅師が生きておられた時は、このように叱咤激励をし、雲水と共に、修行をしていたことが偲ばれました。
この木版を見ていると、私の迷いの心みたいなものが、かなり薄くなったが感じられました。
●白隠禅師句良寛和尚書碑

実は、何が書いてあるのか、まったく解読できなかったのですが、他のサイトから参考にさせて頂きました。
白隠禅師句良寛和尚書碑だそうです。
白隠禅師の詠んだ句を良寛さんが書にしたためたそうです。良寛さんは曹洞宗の僧ですが、白隠さんに傾倒していたそうです。
右側が 白隠語録「槐安国語」の一節
君看雙眼色 不語似無憂
(君見よ、双眼の色、語らざれば、憂い無きに似たり)と書いてあるそうです。
左側が良寛和尚の句
降る雪の降る雪の 雪の花と我が後の世の 家つとにせん 家つとにせん。
だそうです、解説の看板もあったそうですので、次回行ったときに、再度確認をしてこの行を完成させます。
●松蔭寺と富士山

松蔭寺と富士山です。
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも詠われた白隠禅師ですが、「この富士山と同じぐらい優れている」と、称えられていたのですから、500年に一度の人だったのだなーと、感じ入りました。
また、
江戸時代の宝永4年(1704年)の富士山大噴火のとき、住民が避難するなか、白隠禅師は、本堂に坐禅して決して逃げなかったそうです。
天が自分を身捨てるのなら、自分もそこまでなのだ。だからここにいると。悟りの境地を得ようと捨て身だったのでしょう。
こうやって、画像を貼って文章を書いているだけでも、自然と勇気みたいなものが湧いてきます。
●千本松原海岸から望む富士山

松蔭寺から、少し離れて千本松原(海岸)に移動している途中に撮影した富士山です。
夕日が映えて、とにかく美しかったので、紹介いたしました。
●夕日に映える、千本松原(海岸)

夕日がとても美しかったです。思いっきり逆光でしたので、デジカメが機能しているか分からなかったのですが、後程確認したら、綺麗に撮れていました。
優秀なカメラに感謝しました。
白隠禅師も、また、そこに集う修行僧達も、同じ情景をみていたのだろうかと、偲ばれました。
●松蔭寺に戻り、白隠の墓所の手前にあった看板

ここに書いてある内容は、先ほど紹介させて頂きました、白隠の略歴と同じです。
●白隠禅師の墓所 (三基の墓塔の向って左側)

白隠禅師のお墓です。
墓所は、三基の墓塔が建てられていて、周囲を石垣で囲んであります。
向かって、左側が白隠、中央が創始者、右側が中興者の墓だそうです。
白隠の墓には、「荊叢(けいそう)」と刻まれていました。これは、白隠の語録の「荊叢毒蕊(けいそうどくずい))からとったものだそうです。
意味は、わかり次第また、ご紹介いたします。
このお墓の前で、私は、将来のことや、迷っていることや、行き詰っていることを、白隠禅師に語りかけるように、全部祈りました。
しばらく、祈っていると、自然に涙があふれてきて、しかも、迷いの心みたいなものが、全部吹き飛んだ感じがしました。そして、信じられないぐらい、やる気というか、勇気みたいなものが、湧いてきたのです。
白隠禅師に喝を入れて頂いて、さらに500年に1度の天才に、守って頂いている感じがしてきたのです。
本当にそんな感じがしました。
そして、私は感動を背に、松蔭寺をあとにしました。
白隠禅師様、そして松蔭寺さん、まことにありがとうございました。また迷いの心が生じたら、ここに来させて頂こうと思います。
1年に1回は来たいですね。
●夕日に映える鐘つき堂(鐘楼堂)

松蔭寺を出るときに撮影しました。とても美しかったので、紹介いたしました。
本当に、ありがとうございました。

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そこはどこのお寺か?
このブログで何回か紹介をさせて頂いていました。
500年に一人と言われるほどの高僧となり、のちに臨済禅中興の祖と仰がれるようになった、あの白隠禅師のお寺「松蔭寺」と墓所をご紹介いたします。
この松蔭寺に来たのは、今回で3回目です。
自分自身に迷いが生じた時に、松蔭寺に来させて頂いていました。
今回も、自分の将来のことや、仕事のことで、迷いが生じ始めていたので、松蔭寺に行き、白隠禅師のお墓に参拝することを思い立ち参拝をさせて頂きました。
参拝の内容をご紹介する前に、白隠禅師の略歴を、ご紹介いたします。
●白隠禅師~500年に一度の名僧~。
(白隠禅師の紹介ページより)
”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”
白隠禅師は、駿河国原宿(現在の沼津市)長沢家の三男として、貞享二年(1685年)十二月二十五日の仕舞天神の日、丑の年、丑の日、丑の刻に生まれ、名を岩次郎といった。
十五歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられた。
十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった
禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和五年(1768年)十二月十一日八十四歳で入寂(にゅうじゃく)し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
(引用ここまで)
ワールドメイトの深見東州先生によると、白隠禅師は、日本の歴代僧侶の中で、霊格ナンバーワンだそうです。弘法大師や伝教大師よりも上だそうです。
それもそのはずだと思います。
白隠禅師は、24歳のとき、越後高田の英厳寺(えいがんじ)で坐禅中、鐘の音が鳴り渡るのを聞き、禅師はこつ然と大悟したそうです。その後、信州飯山の正受老人(しょうじゅろうじん)の基で修行し、その法を嗣いだそうです。
そして、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。
ワールドメイトの深見東州先生の解説によると、
法華経を体得できたということは、お釈迦様と同じレベルに達したということです。
ようするに、白隠禅師は42歳で、釈尊に追い付いたのです。
その後も、一日も怠ることなく修行をし、後進を育て続け、84歳で入寂する頃には、釈尊が開いた悟りの2~3倍に達していたそうです。
これを考えれば、日本史上最高の僧侶だったことが伺えます。
禅文化研究所から出ている、白隠禅師法語禅集(全14巻)を読んでいると、白隠のすごさが良くわかります。
白隠は、数多くの後進を、見性(悟り)へと導きました。
何十年修行しても、なかなか見性(悟り)が得られない僧侶達を、ガンガンに見性(悟り)へと導いていったそうです。
これはすごいと、噂が噂を呼び、白隠禅師がいた松蔭寺には、200~300名の僧侶が常に集まり、修行をしていたそうです。
後進への指導は、雷が巌を打ち付け破壊するぐらいの、迫力があったそうです。
白隠禅師が説法をするとなると、京都のお寺でも、飛騨高山のお寺でも、200~300名の人々が自然に集まってきたそうです。
佐賀藩の大名も、参勤交代の途中に松蔭寺に立ち寄り、白隠禅師の指導を仰いでいたそうです。
これから考えても、いかに白隠禅師の悟りが本物であり、指導者としても優れていたかが良くわかります。
今回この白隠禅師の墓所に参拝するわけですから、行く道中は自然と身が引き締まりました。
●電車で移動 原駅(静岡県)に着いた。
いつもは、車で移動していたのですが、松蔭寺は(静岡県)原駅のすぐそばにあることと、東海道線上にあるためアクセスがしやすいので、電車で行きました。
●(静岡県)原駅から、望む富士山
(静岡県)原駅のプラットフォームから望む富士山は、とても綺麗でした。
原駅に降りて、最初に目に入ったのが、この富士山でした。
●松陰寺に着いた。
(静岡県)原駅から、10分程歩いて、松蔭寺に着きました。
今回で、3回目ですが、「大本山松蔭寺」の石柱を見た瞬間に、身が引き締まりました。
●松蔭寺の正門
松蔭寺の正門です。ここに240年前に、白隠禅師がいたのかと思うと、自分の御魂が、震えてくるのを感じました。
●本堂 扁額は「大信根」
正面を歩いて、右側に「大信根」という扁額の本堂がありました。(立派な伽藍というわけでなく、どこにでもある普通のお堂です。)
白隠禅師は、
「大信根、大疑団、大憤志を持って修行の三要件とし、見性成仏させる宗風を復活させた、臨済禅中興の祖である。」
とのことでしたので、この大信根が書かれていたのでしょうね。
●本堂 脇にある「大憤志」という扁額の館は、禅堂(修行道場)なのでしょうか。
禅堂の中は、向かい合って座るレイアウトになっていました。臨済宗は、向かい合って座ることを考えると、やはりここは禅堂なのでしょうね。
(曹洞宗は壁に向かって座ります。)
松蔭寺は、そんなに大きくない普通のお寺です。
このお寺に200~300人もの雲水が、白隠を慕って修行をしていたかと思うと、当時は、そうとう興勢を誇っていたことと思われます。
改めて、組織や人材というものは、リーダーの実力に比例して、大きくなったり、集まったりしていくものだなあ、ということも感じました。
●禅堂(修行道場)の木版
少し、墨が消えかけて見難かったのですが、掲げてあった言葉は
「生死事大 光陰可 無常迅速 謹莫放逸」
でした。
意味は、(私の拙い訳ですが)
「生死は一大事、光陰(時)は矢の如く、無情迅速に過ぎゆく、修行に励め、無為に過ごすな。」
なのでしょうか。とても深い言葉だと思います。
白隠禅師が生きておられた時は、このように叱咤激励をし、雲水と共に、修行をしていたことが偲ばれました。
この木版を見ていると、私の迷いの心みたいなものが、かなり薄くなったが感じられました。
●白隠禅師句良寛和尚書碑
実は、何が書いてあるのか、まったく解読できなかったのですが、他のサイトから参考にさせて頂きました。
白隠禅師句良寛和尚書碑だそうです。
白隠禅師の詠んだ句を良寛さんが書にしたためたそうです。良寛さんは曹洞宗の僧ですが、白隠さんに傾倒していたそうです。
右側が 白隠語録「槐安国語」の一節
君看雙眼色 不語似無憂
(君見よ、双眼の色、語らざれば、憂い無きに似たり)と書いてあるそうです。
左側が良寛和尚の句
降る雪の降る雪の 雪の花と我が後の世の 家つとにせん 家つとにせん。
だそうです、解説の看板もあったそうですので、次回行ったときに、再度確認をしてこの行を完成させます。
●松蔭寺と富士山
松蔭寺と富士山です。
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも詠われた白隠禅師ですが、「この富士山と同じぐらい優れている」と、称えられていたのですから、500年に一度の人だったのだなーと、感じ入りました。
また、
江戸時代の宝永4年(1704年)の富士山大噴火のとき、住民が避難するなか、白隠禅師は、本堂に坐禅して決して逃げなかったそうです。
天が自分を身捨てるのなら、自分もそこまでなのだ。だからここにいると。悟りの境地を得ようと捨て身だったのでしょう。
こうやって、画像を貼って文章を書いているだけでも、自然と勇気みたいなものが湧いてきます。
●千本松原海岸から望む富士山
松蔭寺から、少し離れて千本松原(海岸)に移動している途中に撮影した富士山です。
夕日が映えて、とにかく美しかったので、紹介いたしました。
●夕日に映える、千本松原(海岸)
夕日がとても美しかったです。思いっきり逆光でしたので、デジカメが機能しているか分からなかったのですが、後程確認したら、綺麗に撮れていました。
優秀なカメラに感謝しました。
白隠禅師も、また、そこに集う修行僧達も、同じ情景をみていたのだろうかと、偲ばれました。
●松蔭寺に戻り、白隠の墓所の手前にあった看板
ここに書いてある内容は、先ほど紹介させて頂きました、白隠の略歴と同じです。
●白隠禅師の墓所 (三基の墓塔の向って左側)
白隠禅師のお墓です。
墓所は、三基の墓塔が建てられていて、周囲を石垣で囲んであります。
向かって、左側が白隠、中央が創始者、右側が中興者の墓だそうです。
白隠の墓には、「荊叢(けいそう)」と刻まれていました。これは、白隠の語録の「荊叢毒蕊(けいそうどくずい))からとったものだそうです。
意味は、わかり次第また、ご紹介いたします。
このお墓の前で、私は、将来のことや、迷っていることや、行き詰っていることを、白隠禅師に語りかけるように、全部祈りました。
しばらく、祈っていると、自然に涙があふれてきて、しかも、迷いの心みたいなものが、全部吹き飛んだ感じがしました。そして、信じられないぐらい、やる気というか、勇気みたいなものが、湧いてきたのです。
白隠禅師に喝を入れて頂いて、さらに500年に1度の天才に、守って頂いている感じがしてきたのです。
本当にそんな感じがしました。
そして、私は感動を背に、松蔭寺をあとにしました。
白隠禅師様、そして松蔭寺さん、まことにありがとうございました。また迷いの心が生じたら、ここに来させて頂こうと思います。
1年に1回は来たいですね。
●夕日に映える鐘つき堂(鐘楼堂)
松蔭寺を出るときに撮影しました。とても美しかったので、紹介いたしました。
本当に、ありがとうございました。

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三峰神社参拝記
今回も神社参拝の内容をご紹介いたします。
先日、休みの日に、三峰神社に参拝をさせて頂きました。
年に1回は来るのですが、今年に入って2回目の参拝となりました。
参拝の内容をご紹介する前に、三峰神社のご祭神・由緒についてご紹介いたします。
※何ゆえか、たちばな出版「全国の開運神社案内 著:深見東州」に三峰神社が載っていませんでした。次回出版される時は、ぜひ三峰神社の功徳も載せて頂けることを願う次第です。
(三峰神社公式サイト ご祭神・由緒のページより 一部 抜粋)
●三峰の名は、神社の東方にそびえる雲取山、白岩山、妙法嶽の三つの峰が美しく連なることから呼ばれます。
三峰神社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠(うすいとうげ)に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。
これが当社の創まりであります。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。
天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられました。
更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。
又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。
以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。
「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。
その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
●三峰神社の参道に着いた。
国道140号を抜け、県道278号を車で走らせて小一時間。三峰神社の参道に着きました。
かなり紅葉が進んでいました。私は、秋が一番好きでして、このシーズンに紅葉で一杯の三峰神社に来させて頂いたことは、とても嬉しかったです。
●参道から望む白石山
参道を歩いていると、早速視界に入ってきた白石山です。
白石山は、三峰の峰の中には入っていないのですが、とても雄大さを感じ、畏敬の念が自然に出てきました。この山から私に何か語りかけてくるようでした。自然に頭が下がりました。
●三峰神社鳥居
いよいよ鳥居に到着です。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)も、鳥居の下に設置してあります。
この鳥居をくぐると一気に気が引きまる感じがいたしました。
●日本武尊(やまとたけるのみこと)像
参道の途中にあった、三峰神社の創建者といわれている日本武尊(やまとたけるのみこと)像です。
日本武尊も、1900年もの前に、この地に足を踏み入れたのでしょうか。とても感慨深いものがありました。
●三峰神社本殿
三峰神社本殿に到着です。
今回も、昇殿参拝をさせて頂きました。
申し込みをしたら、本殿の中の食堂のような場所に通して頂きました。参拝の時間が来たら、マイクロフォンでお呼びいたしますとのことでした。
食堂ではお茶を出して頂きました。一口お茶を飲んでから、自然と祈りの世界に入っていきました。
仕事のこと、仲間のこと、自分の将来ことを祈りました。
もちろん、それらの祈りはすべて、水無神社の神主さんに教えて頂いたように、またワールドメイトの神法悟得会入門篇の祈りに則って「世のため、人のため、社会のために役に立つ」ように帰結させました。
このようにお祈りをしていると、背筋がシャキンとして、心が胸が本当に暖かくなります。過去の私の経験上、100回祈ったら100回とも必ず暖かくなるので、
いかに
「本当に神仏が降りてくる正しい祈りである」
「ワールドメイトのみでしか教えていない、門外不出の神法である」
ということを私の感覚の中で確信をしております。
(この祈りの方法は、どんな開運法のハウツー本にも載っておりません。)
しばらくして、「○○さん、お待たせいたしました。参拝の用意ができました」とのアナウンスが入りました。
そして、滞りなく、神主さんに、正式参拝のお取次ぎをして頂きました。
ご祈祷終了後、神主さんに
「遠いところから、ようこそお越し頂きました。○○さんの、ご祈願は滞りなく、お取次ぎさせて頂きました。」
と言って頂きました。
私は、何か自分自身に不測の事態が起きたときは、また来ようと、心のそこで思いました。
●妙法ヶ岳遥拝場へ向かう参道
妙法ヶ岳遥拝場へ向かう参道ですが、とにかく紅葉が綺麗でした。街中では絶対に見ることのできない景色でした。
奥宮に行こうと思ったのですが、時間と体力を考えて、遥拝で済ませることにいたしました。
●三峰公園に向う遊歩道
ここも紅葉がとても綺麗でした。歩いていると心が洗われるようでした。
●遊歩道の途中にあった看板
これが、三峰神社付近の見取り図になります。この画像だけですと、わかり難いかもしれませんが、赤色の▲が、それぞれ上から、妙法嶽、白岩山、雲取山、となっています。
この看板の場所から、三峰の山々が一望できます。
●三峰の山々(妙法嶽、白岩山、雲取山)を一望する。
三峰の山々(妙法嶽、白岩山、雲取山)は、本当に美しい情景でした。この峰から、何か私に語りかけてくる感じがしました。
再度この場所でも、正式参拝をさせて頂いた内容を、お祈りさせて頂きました。
(もちろん、ワールドメイトの神法悟得会入門篇の祈りに則ったお祈りです。)
私自身の祈りと、また、山々の暖かくて、繊細な気みたいなものに包まれて、何ともいえない幸せな気分になりました。
本当に幸せに気分になって、この三峰神社を後にいたしました。
また、機会があったら必ずこうようと思った次第です。
次も、どこかの神社に行きましたら、その内容をご紹介いたします。

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